回顧 そのニ

調理部を休業して二週間が経過しました。時間的な余裕もできました。経済的にも月に4、50万円の支出はそれなりにたいへんでした。今は節約に心がけており急速に財務が回復しております。全体的に経済が回っております。これまでは投資投資,そして投資に先行してきました。守りに入ったことは一度もありません。それだけに今回の節約節減の徹底は効果絶大です。自家用車の廃車も功を奏しました。自転車生活も快適で健康的です。リースやローンがいかに不経済かも身に染みてわかりました。無駄を省きコスト削減に励んでいるためにほぼ借り入れは完済してしまいました。あとは個人の資金を法人から返済できれば終わりです。年内には目処が立ちそうです。これであとは回収だけになるために飛躍的な発展が期待できそうです。圧倒的な存在感と絶対的な権限,そして決定的な王者としての風格を備えます。仕事も増加してきており人材の確保にも一定の目処が立ちそうです。一度,極限までやってみれば全体を俯瞰できるようになります。
何でも質を高めるためには一度は極限まで量をやらないといけないということもわかりました。本田圭佑が働き方改革に物申しておりました。練習量を一度は極限の極限までやった人間でなかったなら自分の限界などわからない。時には無理をしてでも限界まで挑戦をしろ。そこで初めて質を高めたり効率よくやる方法を見出せる。だから自分に甘くなってはいけないし世界と戦える実力を身につけないといけない,と言っておりました。まったく同感共鳴しました。河野玄斗も勉強法として質を高め効率よく勉強をする方法についてまずは量をやってみることから始めろ、と言っております。彼は司法試験の勉強中、講義の動画を時には1日に15時間も聴き続けたそうです。そこで基礎だけでも叩き込んであとは全体を掴んで一気に本質を知ったあとはまとめて畳み込んでいく勉強法だったようです。本田圭佑も河野玄斗もある種の天才ですが私たち凡人も彼らから学ぶことは多分にあると思います。時には狂気の沙汰となってコトに没頭し無我夢中にならなかったら真理には到達しないと思います。スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクもそういう人生を歩んで来ているようです。
私もこれからはもっと選択と集中をしないといけないと思っております。また結局は仕事は人がします。AIやITにも限界はあります。創意工夫をして限界まで挑戦できる人を採用できるかが鍵になります。プロフェッショナルと言える人はどんな時でも怯むことなくコトに当たります。そして窮地を救います。本質を当て込んで咄嗟に行動して危機を回避させます。これは日頃の鍛錬や修行ができているかの差です。わたしは第二の人生はそういう人と出逢ったりしてみたいと思っております。そのためにこれまでは準備期間だったようにも思えます。運をよくするには心をよくするしかありません。心をよくするには教養を身につけたり徳を積むことしかありません。そして善行をして世のため人のために働くしかありません。志高く生きて気高く励むことしかありません。よき仲間を選ぶことも必須条件です。腹黒い邪悪な人間と交わってはいけません。環境が人をつくります。それがその人の人生となります。悪友は断ち切ることです。よきサンガ(僧団)の中にいないといけません。そうでないと人間は汚れ腐っていきます。生活のために我慢して腐敗した社会に身を置くことはいけません。一度きりの人生が台無しになります。私も還暦を過ぎてそのことをつくづくと思う今日のこの頃です。幸いに私は理想をつくり夢を叶える人生になっております。汚泥の中に咲く一輪の蓮の花となることが仏教です。開祖道元も中国での留学中に堕落僧の多いことに愕然としたと述懐しております。そのために帰国後は一旦は京都に身を置くも越前へと向かいました。そこで一箇半箇(少数精鋭)の僧団を形成しました。巨大化した曹洞宗や永平寺はもう開祖からしたらその役割は終えております。肥大化し形骸化した僧団に道元禅はもはやありません。護送船団方式化した宗門はその使命をとっくに終えておりました。そこに早く気づき方向転換したものだけが生き延びます。というか本来のあるべき姿へとカタチを変えられます。迷中にあって盲目僧で終わりたくはありません。命中にあって眼目僧となることが道元禅です。
最近、宗教問題編集長の小川寛大氏が「誰がお寺を殺したのか」(宝島社新書)という著書を上梓されました。一時代の終焉に警鐘を鳴らしておられます。誰も反省をしないし方向転換を図ろうとはしません。分析も洞察もしません。現状に甘え狼狽(うろた)え飜弄されているだけです。誰も行動を起こしません。それが宗門です。いまだに現状維持と叫んでおります。いまだに伝統重視とか言っております。まだわからないのでしょうか。自己否定をするのが嫌なだけです。認めたくない人たちでしかありません。若者よ。そこを直視せよ。もうあなた達にも時間はありません。立ち上がることです。まずはひとりで行動することからです。釈迦のいう今こそ犀(サイ)の角の如くただひとり歩む時です。一つの道を二人して行くこと勿れです。それこそが仏教です。それが道元禅です。禅とは単を示したものです。ただひとり自己を内省するものでしかありません。喝。合掌
令和7年10月12日
見性院住職