江戸の敵を

江戸の敵を長崎で討つ。墓地のことで半世紀も揉めて来た旧檀信徒といよいよ袂を分つことにしました。先代の時代から引き摺って来たことでどうにもならないわからずやでした。再三,話し合い私もこの件もありすっかりお寺のことが嫌になったものです。そこの家のかつての主人が原因で今でもその地域とはギクシャクしたままです。これから私は恨みを晴らすためにも連帯責任をとってもらうつもりでおります。あまりにもよくしてあげ過ぎて今は後悔しかありません。私は先代の時からのことはすべて水に流すという寛容さでこれまで一貫して誠実に真面目に取り組んできましたがその必要はなかったことに気づきました。それが理解できない人です。ほとんどがぐうたら,ボンクラです。人間性とか質はよくありません。私とはまったくそりが合わないし腹黒い人たちの塊でしかなかったということです。私ひとりが英雄となり地域は負け組となりました。
これから寺院社会は崩壊時代です。誰も助けてはくれません。いらない人とは早期に袂を分ち防衛することです。当人はわかっていても都合の悪いことは知らむ存ぜぬの一点貼りです。この人とはもう無理,限界でした。旧職員も呆れてものが言えないと匙を投げていました。しかしながら新熊谷霊園の開設もあり百歩譲ってこの一年ほど話し合いを続けました。それでも結論が出ませんでした。何かと昔のことを蒸し返しては堂々巡りの議論をするばかりです。毎回ニ、三時間です。もうこの人には何百時間を取られたか計り知れません。その損害だけでも甚大です。暫く単身赴任をしていて皆目,両親から何も聞かされていないと言いながらです。それでも有る事無い事で屁理屈を並べ立てているだけです。知らないと言いながら知ったかぶりは役者以上です。おそらくは近所や親族からそれなりの入れ知恵でもって引っ掻き回しているようです。今,当院では総代役員を私の個人的な関係者に依頼をしております。そのためにパイプがありません。だから自己(意思)決定ができ大発展に成功をしております。ある意味,最後の砦なのか、執拗に捏ねくり回して来ます。これは本人個人の陰険陰湿な性格だけでなく周囲の画策にも思えます。間違いありません。この負の連鎖は早急に断ち切らないといけません。首根っこを掴まれたら厄介です。騙されない間に排斥をするしかありません。高齢者は曲者です。狡猾です。
先般、北関東の臨済宗寺院、名刹が宗派離脱に踏み切りました。修行道場でもありながらです。その師家(代表,指導者)は宗派本山から擯斥処分に付されました。永久的追放です。私は自分の代に離脱した人。謀反を起こした人。排斥をした人を復帰させるつもりまったくありません。示しがつかなくなるからです。宗派離脱をした寺院が復帰をすることは常識的にはありません。それと同じです。簡単には戻れません。墓地の使用は自由にしておりますが檀信徒としての扱いはしません。それは当たり前です。これから当院は益々,目覚ましい発展をさらにしていくことは間違いありません。まったくもって余裕です。これだけ条件のよいお寺はありません。もっとも恵まれております。それがわからなかったのは自分が悪いだけです。自己責任そのものです。今になって後悔をしてもこちらは知ったこっちゃありません。墓場までもって行ってください,だけです。少なくとも私はこの地で生まれ育って60年です。私がもっともよくわかっております。そして今や絶対的権限と実力を備え切っております。いつもこれだけのオーナー住職はいないはずであると豪語しております。それだけに人は擦り寄って来ます。縋(すが)ってきます。額付いて来ます。それでも簡単には動じません。知名度は全国区です。私の一挙手一投足に注目が集まります。そのために家族や職員には狸親父には騙されるなと忠告をしております。
今は特に第一次住職時代の総仕上げです。足元を掬われたら元も子もありません。坦々と粛々としていることです。情けは人の為ならずです。情に流されずです。信念を貫きやり切る時です。完膚なきまでに。ここで転ける訳には行きません。幸いにかなりの利益が出て来ております。全国から人が殺到しております。天下の見性院,ここにありにしないといけません。蜘蛛の糸を垂れてはいけません。その地位を不動にして決定づけないといけません。本当によく回っております。好循環しております。全体が動きまくっております。妥協はしないことです。突き放すことです。見捨てることです。見限ることです。時に冷徹に。このくらいの厳格さと執念は必要です。第二の人生、住職としての終活も始めます。散々と失敗もして来ました。免疫も経験も知見も持ち合わせております。縦横無尽にその経験を生かします。さらに見せ場をつくって見せます。テコ入れはしてあります。仕掛けもあります。仕組みもできております。恐れるものはありません。準備万端,用意周到です。どっからでもかかって来いです。背負い投げでも内股でもです。そんな自信満々でおります。計画通りにできております。今や最強寺院だと思います。伸び代がもっともあると思います。終始一貫,初志貫徹で来たことが幸いしていると思います。そのために運命が味方をしてくれているのだと思います。これまでの苦労が報われて来ております。漸く収穫の時を迎えております。だからこそ江戸の仇は長崎で撃つときでもあります。
実際には支持者は周囲が思っているよりも遥かに想像以上に多いと思います。尊敬もされているはずです。なかなかこれだけのことができる人はいません。論じることができでも実行はできません。批判だけできてもあまり意味はありません。夢をかたちにすることです。意思をものにすることです。日々,繰り返し修行を続けることしかありません。修行が習慣化していれば苦になりません。毎日が快適です。今はそんな日暮らしができるようになりました。人の目などまったく気になりません。自分の思うように生きられるようになりました。思うがままにあなたも生きてみませんか。夏の暑さでも爽やかに。
令和7年7月11日
見性院住職