雇用と解雇と三時業

またいろんな波が来ております。全体的に好調です。来週から出家希望者のインターン前のプレインターンというのか入門研修期間に入ります。これまでは来るものは拒まず去るものは追わずで受け入れて来たため大失敗でした。慎重に審査をするためです。まずはインターン。それから最低でも一年間の見習い期間があります。そこで適性とか本気度、僧侶に相応しい人格者であるかを判断します。もう粗製濫造はしません。慎重の上にも慎重を期します。また私、師僧に対しても忠誠を誓い忠義を重んじることができるかも重要です。今回は十代です。それともう一人はまだメールの段階ですが参禅歴40年の在家の居士のようです。これからという若者と第二の人生は僧侶という対照的な二人に志願者が出ております。私も第二の人生のため本物だけを養成するつもりでおりますので見込みがなそうであれば早々にお断りはするつもりです。
あと5年早く住職になっていたら今とはまったく違う世界を構築できていた自信もあります。師父とは能力もセンスもすべてが段違いです。私の方が遥かに上です。第二の人生ももっと早く考えることもできたと思います。そういう意味でも親の影響は大き過ぎます。反面教師でよかったこともありますが。ここは挽回して果たせなかった夢や計画をこれからやります。残されている時間はそこまで多いとは決して言えません。様子を見たり気長に待ってみたりする余裕も意思もありません。これからは年々歳々、志願者や師事をしたい人など引くて数多になることは間違いありません。指導も門下生とかにお願いすることもあると思います。また住み込みで働きたいという人もいます。この人もインターンにするかお断りをするか熟慮をしている最中です。これまでの人があまり優秀とは言えなかったため足踏み状態です。リスク回避をしながら様子を見るか、迷走中です。今の職員が割と優秀でよくできるため厄介者を入れることはできません。かと言ってどうしてもチャレンジをしたい、という人にはチャンスを与えたいという慈悲心はあります。今はこうしたセカンドステージらしい悩みを抱える日々です。臨時バイトの人も毎日三、四人にはなりました。社会人としても経験豊富、即戦力のある人が揃って来ております。技術や知見,常識もあります。これで当院はまた飛躍的に発展していくと思われます。結局は人です。よい人に恵まれて適材適所で活躍できる人が現れるかで命運が決まります。地盤固めにどうしても時間を取られます。ここでしっかりと構築できれば夢は叶えられると思います。この人たちに活躍をしてもらえるようにこちらも最大限の配慮をするつもりです。歯車が合ってきて大発展の兆しを感じます。抜かりなく突き進みたいものです。理想郷を目指してやってきた成果は必ず出て来ると思います。
私は放任主義であり自由主義です。と同時に自己責任,自業自得が信条です。できるだけ自分で考えて行動してもらうことにしております。そのために寄付も会費も無料にしております。葬儀や法事,お盆供養の強制や斡旋はまったくしません。それぞれで考えてもらっております。そもそもお墓だけ利用して水場やお手洗いだけ使っている人もいます。そういう人は必ず罰当たりにはなります。それにそういう人がお参りをしたところで何のご利益もありません。不遜になるだけです。逆効果です。不幸になるだけです。私はすべて放っておいております。何も心配はしておりません。天網恢々(てんもうかいかい)、疎にして漏らさず,つまりは天はすべてをお見通しです。積善の家に必ず余慶あり、積不善の家には余殃あり(易経)と言います。善行を積み重ねた家には必ずその功徳により幸せが訪れ、不善を重ねた家にはその報いとして災難が訪れる,という意味です。私はこれを信じます。私やお寺と不仲になったり不徳や悪事を働く人に幸せは訪れません。けちけちして利己的、自分勝手な人には天罰が降っております。間違いありません。自信を持って言えます。
私は日頃から様々な角度から分析はしております。仏教は因果の世界観です。必ず報いはあります。三時業(さんじごう)と言います。順現業(じゅんげんごう)、順生業(じゅんしょうごう)、順後業(じゅんごごう)です。生きている間に報いを受けるのが順現業です。次の世で報いを受けるのが順生業です。そして最後が次の次の世で報いを受けるのが順後業です。つまり業、行いには必ず報いがあるというのが仏教です。だから心配はないのです。必ずいつか天罰はあります。それを考えたら裁判所がなくてもよいのが仏教です。逃れられないのですから。そもそも人間が人間を裁き切れるものではありません。あとは天に任せるのみです。縁に随い成り行きに生きるしかありません。人事もそうかもしれません。縁がなくなれば自然と去っていくものです。我らはみな旅人です。さすらいゆくのみです。行雲流水。
令和7年7月15日
見性院住職