個人主義と徹底路線

最近は日増しに押しかけ僧侶や檀信徒をはじめ私に会いたい人が急増しております。そこで30分、一万円からでお会いすることにしました。ただし事前の許可制とはなります。なかなかどうやっても自分の時間をつくることがたいへんです。業務を減らすことも難儀です。そこで人と会うだけでも収益化できればそれも一つのビジネスにもなります。そして人々の願いを叶えることもできます。とてもよいことだと私は思います。両者が合意して同意のもとであればなんの問題もありません。これも出会い系ビジネスとして成り立つのではないでしょうか。そもそも宗教は取り引き的ビジネスではありません。強いて言えば人間的魅力を売るものです。人格を商売にしているとも言えます。読経してお布施をもらうよりも健全とさえ言えるはずです。私と直接に会えてお布施ができればそれだけでも幸せのはずです。本来の宗教とはそういうものでないでしょうか。儀礼や祈祷、読経などのある意味、まやかし的宗教商法よりも懇談して悩みを聞いてあげたりする方がより効果はあります。信者の夢を叶え宗教者の負担にもなりにくい最善の収益法かと思います。
これからは葬式仏教や儀礼宗教は衰退、消滅化していきます。そもそも開祖たちは加持祈祷や読経供養などはしておりませんでした。釈迦もです。僧侶とは基本的には生き方です。その生き方に賛同してお布施をしてもらって生きていけたなら本物です。本来的には兼業や副業で生活を成り立たせるものではありません。この僧侶にお布施をしたら必ずや世のため人のために還元してくれる。自分たちの資産を浄化させてご利益をもたらせてくれる、そう信じてお布施をしてもらえることこそが真実です。葬儀や法事のお布施よりもはるかに価値はあります。そうしていけばいるお寺、いらないお寺、いるお坊さん、いらないお坊さんは差別化されます。健全なる淘汰によって宗門を甦らせることもできます。この人に会いたいで成り立つお坊さんさんだけが生き残ります。これがもっとも現実的な宗門改革となります。
私は今、より魅力的でいたいので常に読書と筋トレは欠かしません。特に筋トレは毎日は負担のため一日おきにしました。筋トレとストレッチをする日と軽いランニングの日で分けました。あまりに根を詰めると何処かで必ず反動(リバウンド)が来ます。これは勉強もそうです。社会人、特に私の場合には最高経営責任者です。全責任があります。この三年はどうしても迷いがあり試行錯誤の中で陣頭指揮を取りました。その結果、収支は横ばいとなってしまい自分の心に問題があったことを痛感しております。どちらに主軸を置くか、どこを優先するのか。それらをよく吟味してその余力の中で次の人生を考えていかないといけないことに気付かされました。収益化できるものは遠慮なくします。周囲に遠慮して埋没しても損です。なんでもやってみてはじめてわかることが人間はほとんどです。アテは外れるし予想外の不測の事態は常にあります。思ったことはなんでもトライすることが最善です。失敗こそ成功の教師です。失敗の数と成功は比例するものです。教訓という引き出しを持っている人ほど魅力はあります。そこに人的価値があります。
私はいずれはカフェやレストランという構想があることは公言してきました。庫裡の厨房も手狭になりそろそろ客殿へと移行させていきます。移設ができる建物を小さくても実現したいものです。素晴らしい料理人は何人も見つかりました。ただそれぞれに生活や本業もあったりしております。なんとか収益化も考えないといけません。安藤忠雄氏が講演の中で資金はなくても夢や構想、そして志があれば。そして強い思いを持ち続けて突き進んでいけばいつかは歯車があって実現できる日が来るものです。と言っておられました。この三年は少し停滞期でしたがこの4、5月は大幅な収益増です。近年にはない好調のようです。一旦は仕切り直して打って出たこと。挑戦し続けていることが功を奏しているのだと思います。軌道修正は大事です。目の前に課題はいつもあります。しかしながら答えもあるものです。これを自問自答していくことが修行です。これを開祖道元は現成公案と言ったのだと思います。
私たちの人生は常に実はシンプルです。自分の心がすべてを決めます。己事究明、つまりは自己の追求でしかありません。周囲に反感を買おうが顰蹙を買おうがどうでもよいのです。すべての結果は自分で背負うのですから。周りは一切関係はありません。やってみたいことはなんでもやってみることです。その中にしか答えはありません。いざ出陣へ。
令和7年5月20日
見性院住職