旅の参禅者が来る

昨日の早朝より旅の参禅者がお参りされました。私がいつも通り朝の鐘撞きをしているところにひょっこりと顔を出されました。始めはお墓参りの方かなと思いましたがゴールデンウィーク中、お寺廻りや早朝のお勤めに参列することが慣例になっているとのことでした。北関東に実家があり高齢の両親を連れて親孝行の旅行もしていたそうです。愛知県から来られていて帰り道に当院のHPを見て立ち寄られたとのことです。早速に本堂での勤行にお招き入れ読経と坐禅瞑想にも参加していただきました。終わって掃除の予定でしたが昨日はたけのこの炊き込みご飯、漬け物、天ぷらの精進揚げ20人前を予定していたためそのお手伝いをお願いしました。二年前に当時40代であった奥様をくも膜下出血のため急逝で亡くされたとのことでした。大学時代を京都で過ごされていた縁もあり仏教にも傾倒されてお寺の行事にもよく参加をする人生になっていったそうです。子どもたちも独立をし今は一人暮らし。大手自動車メーカーの研究技術職とのことでした。料理も自炊とのこと、家庭菜園が趣味であり私ともすぐに打ち解け意気投合しました。
お昼ご飯は越前蕎麦と精進揚げの天ぷらでもてなすことができました。午後からは事務職もプロ級のため書類の整理をお願いしました。そのために是非ともゲストルームに今晩は泊まってお風呂に浸かり洗濯もしていってください、とお誘いをしました。躊躇、そして遠慮もされていましたが私が他人様を無料で泊めて差し上げご接待をすることは無財の七施(※)の一つであり是非ともお布施をさせて欲しいと依頼しました。何とか説得をして夕食も召し上がっていただきました。私はお寺とはどなたでも食事を接待したり宿泊を無料で提供する場所でないといけないと前々から思っていました。幸いにゲストルームも完備しております。貸しマンションを持つこともできました。長期での受け入れもできます。経済的余裕も出来てきたので無料の民泊宿坊を始めたいと思ってました、とお伝えしました。その代わりに簡単な掃除やボランティアをしていただくこと、あるいは朝の勤行に参列していただくことだけは条件になりますが。現在、50代半ばとのこと。退職後の再就職先の選択肢の一つにしてくれるように提案もしました。たいへん喜ばれて床に付かれたようです。今朝、お勤め時に何かお土産の三分間法話をと瞑想後に私の仏教、禅についてお話しさせていただきました。以下。
禅は諸行無常の世の中にあって自らも諸行無常にあることを生きることです。流れに抗うことなく風流に生きることです。現実の目の前に悟りはあります。それを現成公案と言います。常に課題を与えられていますがそこに生きる意味が隠されているはずです。そこに向き合い自己を捨てて滅私奉公で生きることが悟りであると思います。欲に際限はなく諦念によって打ち消すしかありません。その訓練こそ修行です。諦めてお任せする境地しか最後はありません。その道程が公案(禅問答)、あるいは課題の解決法と言ってもよいかもしれません。社会課題の解決も重要ですが究極的には人生課題の解決法こそ仏教の真髄に他なりません。自らの課題解決に自己を知る修行があります。それが坐禅瞑想です。マインドフルネスです。それは幻想を生きる自分であることを知ることに他なりません。修行は自己犠牲を伴います。時にとても苦しくて切なくてやるせないものです。ただしそのトンネルの先にしか光明はありません。運命に抗えないことを知ることも悟りです。縁に任せるしかありません。修行の中にしか悟りはなく悟りは修行の糧でしかありません。行じた分しか悟れません。与えた分しか得られません。すべては一如です。合理的です。助走した分しか遠くには飛べません。因果の法則です。正論を生き正道を歩むことが仏教です。煩悩の人間には険しい道のりです。悔い改めながら愚かなものを生きるのも仏教のような気もします。どちらも仏教かもしれません。俗に生きて俗に悟るも仏教。聖に生きて聖を悟るも仏教かと思います。
昨日はまた同級生の訃報をネットで知りました。柔道家、古賀稔彦の兄でした。享年60歳とありました。天命とは言え早すぎます。日々精進、悔いなく生きることの大切さを今日も教えられております。合掌
令和7年4月29日 昭和の日(昭和元年から100年の真実)
見性院住職
※無財の七施 お金や物がなくても他者へ施すことができる七つの行いのこと 参考